ミニ・ミュンヘン研究会レポート 『アーバン・アドバンスNo.45』(財団法人 名古屋都市センター)掲載記事

1. 日本の子どもの状況

子ども参画のまちづくり ─ ミニ・ミュンヘンに何を学ぶか ─ 子どもの「体力」、「知力」、「気力」が年々衰えている。日本スポーツ振興センターの調査によると、幼稚園、保育園での子どもの負傷で最も多いのが顔と頭で、6割を占めており、これは子どもがすぐつまずいて顔から転ぶためだそうである。身長や体重は確実に増えていても、1日に歩く歩数は20年前より4割減り、背筋力はこの30年で一貫して低下している。その結果、すぐに「疲れた」と座り込み、遠足も完歩できない。また朝礼中に倒れたり、少しのことで骨折する。

歩かなくなって、大脳の健全な発達も進まないのか、昨年12月発表のOECDの国際的学習到達度調査(対象57カ国・地域)いわゆるPISAでも、科学的リテラシー、数学的リテラシー、読解力すべてにわたって、この6年間順位を下げている。PISAが重視しているのは基礎的学力よりも、むしろ日常生活に直結する熟考・評価型の「考える力」で、それが年々劣ってきていることが、教育界のみならず日本の社会に大きな不安を与えている。しかしさらに問題なのは、やはり15歳の子どもを対象にしたOECD加盟25カ国の孤独度調査で、日本がトップで29.8%と、2位のアイスランド10.3%を大きく引き離しており、「30歳になったときに、非熟練労働に従事していると思うか」という調査に対しても、日本がトップで50.3%という高い数字で、日本の子どもが将来に対する不安や孤独感を諸外国以上に持っていることが明らかになっている。

2.「子どもの危機」に気づかない大人

もちろん子どもを取り巻く環境が現在あまり好ましくないのではないかと、多くの大人は薄々感じていると思う。しかし、子どもは環境に対する適応力もあるし、自分たちが子どもの頃もそれほど恵まれていたわけではないので、途上国の子ども達に比べれば日本は豊かな社会だと思っている。むしろ多くの大人は自分がこれから迎える高齢社会の問題の方がより深刻であると考えているのではないか。 しかし、当事者である子どもは子どもの存在の意味や社会的な役割を客観的に発言することはできない。ひょっとして子どもは時々そのような発言をしているのかもしれないが、大人が全く聞く耳を持たないから、あきらめてしまっている。特に日本では儒教の影響か、子どもは人間としてまだ一人前ではなく未完成な生物であり、大人がきちんと教育しなければならない対象であると捉えられている。しかし、国連の「子どもの権利宣言」(1959年)を待つまでもなく、子どもはひとつの人格そして自らの意思と考えを持ち、固有の権利を有している。むしろ大人になっていく段階で失っていく好奇心や空想力、集中力をふんだんに持っている人間である。どうして、大人はそれを忘れてしまうのだろう。 日常的にあるいは職業として子どもと接している大人以外には、この「子どもの危機」に気づかない。しかし、これは大人社会全体の責任である。子ども時代を経て来た大人は子どもの代理人、弁護士として、子どもが人間として本来持っている能力と子どもの権利を明らかにし、それを阻害してきた要因を十分に精査し、新たな社会的システムを構築していく必要がある。

3. まちづくりにおける「子ども」の位置づけ

この30年あまりの間に、それまで社会的弱者であった「障がい者」および「高齢者」がまちづくりの対象者として社会的に位置づけられ、バリアフリーやユニバーサルデザインという新しい概念が制度としても導入されてきた。身近なところでは温水便座や自動ドア、駅におけるエスカレーターやエレベーター等の設置によって公共空間が次第に利便性を高めてきたことは、ある意味では、障がい者、高齢者の存在が大きく貢献している。本来、ユニバーサルデザインの考え方には「子ども」の視点も入っていると思うが、まだ日本では「子どもに配慮したまちづくり」という発想は少なく、「子ども」の問題は個人や家庭の問題あるいは学校教育という狭い分野に閉じ込められており、すべての人に関わる社会全体の問題と捉えることが出来ない。 子どもが少なくなって日本という国が成立しないのではないかという「少子化」対策からようやく「子育て支援」という議論がされているが、それは子どもの問題を単に人口問題として捉え、主に母親を支援するという枠組みであって、それは子どもの問題の一部にすぎない。子どもの議論は目先の経済発展や活性化には繋がらない。しかし何が人間にとって幸せなのか、何のために国家があるのか、なぜ持続可能な社会が求められているのか、真に子どもを中心に据えたまちづくりビジョンや社会のあり方を議論すべきである。 たとえば「持続可能な環境」を考える際、私たちは地球環境や自然環境については近年情報量が増えてきているため、CO2の削減やエコロジカルな生活には関心が高まっているが、一方「持続可能な地域社会」を考える時、次世代を担う子ども達が本当に健全な心と身体と精神を有し、さらに平和で人間的なコミュニケーションが可能かというと、それに対する不安はかなり大きい。持続可能な地域社会形成においては、多様な職業や年齢の人間が共存共生する強いコミュニティこそが求められており、そのためには地域で伝統的な生活の知恵を有する高齢者の役割と共に、それを受け継ぎながらも発展させていく子どもの存在は「持続可能性」という視点からも大きい。 私たちは今こそ、子どもを取り巻く環境が想像以上に劣化していることにまず共通の「危機感」を持ち、この子どもの環境が私たち全員に関わる地域コミュニティ、ひいては国家の存亡に大きな影響を与える重要課題であることを認識しなければならない。本テーマに即して、ミニ・ミュンヘンを紹介してみたい。

4. ようこそ「子どもの遊び都市」へ

ミニ・ミュンヘンの会場入り口 ミニ・ミュンヘンの会場入り口 「ミニ・ミュンヘン」は2年に1回、夏休み期間におよそ3週間、ミュンヘンの中心から地下鉄で15分程のオリンピック公園内の自転車スタジアムで開催される。2006年は、8月1日(火)から19日(土)までの火曜日から土曜日までの3週間開催された。参加出来る子どもは7歳から15歳までで、1日におよそ2,000人から3,000人が来場し、期間中総勢およそ50,000人の子どもが訪れる。 入場料は無料であるが、付き添いに来た大人40人に同年私がアンケートした結果では、半分程度の人はサービスの水準が高いので有料でもよいと回答していた。しかし主催者は「すべての子どもにこの遊びに参画する機会を平等に提供したいので絶対に有料にしない」という方針を持っている。子どもが親に「ミニ・ミュンヘンに行くので、お金くれる?」と言わないので、自分の自由な意思で参加できることが重要であると言っている。

このミニ・ミュンヘンは、1979年の国際児童年を契機に地元のNPOの提案ではじめられ、その後一時不安定な開催もあったが、1986年以降は2年に1回開催され、2006年には第13回目が実施された。伝統あるこのユニークな子どものイベントは、ドイツはもとより、現在ヨーロッパの中でも注目を浴び、現在オーストリア、スイス、イタリア、デンマーク他の40数都市に類似の「遊びの都市」が生まれている。 それでは「ミニ・ミュンヘン」は、いったいどんな遊びの仕組みになっているのだろうか?まず、会場の入り口に子どもがやってくる。するとそこには、ここは「子どもの都市」なので子どもだけが入場可能、と書いてあり、大人の入場は制限されている。たしかに半地下の会場全体を見渡しても、メッセのような会場構成に大人の姿は少ない。スタッフの大人がわずかにいるだけである。付き添いの大人達は、入り口脇の大人カフェで本を読んだり、会場の外の芝生で日光浴を楽しんだりしている。子どもについて行ったり、監視している親も、もちろんいない。

喧嘩アカデミーで殴るロールプレイをしている子ども 喧嘩アカデミーで殴るロールプレイをしている子ども 子どもは受付で(もちろん受付係も子どもだが)名前、住所、趣味等を書いてミニ・ミュンヘンという都市の住民登録をし、遊び都市のオリエンテーションを開く。その後、4時間の仕事と4時間の学習の義務を受けるが、その中には大人の都市にはない「喧嘩アカデミー」での学習がある。この喧嘩アカデミーの講習会は、子ども同士の喧嘩やトラブルが増えてきたために数年前に導入されたもので、大きなトラブルを起こさないような相手への配慮の仕方やノウハウをロールプレー方式で学ぶ。それを終え、試験に合格するとようやく「上級市民証」が得られ、運転免許証、起業許可、被選挙権、土地所有権等が可能になり、遊びの幅が大きく広がる。この市民証は次回の2年度まで有効である。市民証を得た後、子どもは自分の好きな仕事を次々に見つけ、働くとどんな仕事でも時給5ミミュの収入が得られる。しかし1ミミュは市役所に税金として納める。ミミュを持っていると、新聞を買ったり、映画を観ることもできるし、人力タクシーに乗ることもできるし、もちろん美味しいランチを食べることもできる。ちなみに会場内ではミミュしか流通していない上、ユーロとの両替も不可能なため、付き添いで来た親が食事を希望する場合、子どもが働いて稼いであげる必要がある。この大人と子どもの逆転現象が実に楽しい。

5. 大好きな仕事を見つけよう

「遊び都市」の仕事の種類は、レストランのコック、タクシーの運転手、花屋、デパートの店員、洋服のデザイナー、放送局のアナウンサー、新聞記者、先生等豊富で、毎日増えたりするのでスタッフでさえ、いくつあるかわからないと言う。もちろん警察官、裁判官、議員や市役所職員、市長等いわゆる公務員もいる。またミミュがあまったら銀行に預金し、さらに会場の外にある土地を買ってお店を建設することも可能である。したがってもちろん銀行員、建築家、大工の仕事もある。ミミューツ新聞社は毎日夕方の4時に新聞を発行し、ミューテレビ放送局は午後5時にミニ・ミュンヘン内の「今日の出来事」をテレビに流す。そのため、記者がカメラマンは一日町なかを動き回り、インタビューやビデオ撮影等を行っており、締め切りに追われる大変忙しい仕事である。さらにミニ・ミュンヘンが夕方6時に終わると、ミニ・ミュンヘン編集局がすぐに「今日の出来事」の編集に取りかかり、夜にはミュンヘン市役所の子どもポータルにウェブアップされるようになり、毎日少しずつ事業が拡大展開し、魅力アップしてきている。

ミミューツ新聞社で働く子ども ミミューツ新聞社で働く子ども ミューテレビ局のスタジオで働く子ども ミューテレビ局のスタジオで働く子ども

特に興味深い仕事はやはり市長と市議会議員である。1週間に1回市長選挙(市長一人、副市長一人)と市議会議員選挙(7人)が市議会堂で行われる。希望する子どもは自ら候補者として名乗りをあげ、失業対策やレストランのメニューを増やす等、ミニ・ミュンヘン市民に関心のあるテーマの公約を掲げて選挙演説をする。そしてその場で投票、開票が行われる。市長や市議会議員に当選すると、子ども市民から様々な要求や課題を投げかけられ、定例市議会を開催して、公開議論を経て決定する。この議論は本当に真剣で真面目だ。例えば、空車のタクシー(子ども手作りの人力車)が道路を狭めているので、駐車できる場所を定める事と、タクシーに番号をつけて駐車違反を取り締まるという事がかつて議決された。さらにレストランとタクシーのお客が少ないという要望を受けて、13歳のハイジという女性市長は、かつて労働者の給料を2ミミュ賃上げするという判断をした事もある。2004年1週目のモナという14歳の女性市長は、失業対策の雇用確保として会場内を走る路線バスを開設した。2004年2週目のやはり14歳のダニエルという男性市長は、私のインタビューに将来本当のミュンヘン市長になってもいいと話してくれた。

市議会の様子、中央でマイクを持っているのがダニエル市長 市議会の様子、中央でマイクを持っているのがダニエル市長 ハローワークには、毎日およそ新規700人分の仕事が用意されているが、あまりに子どもの数が多くなると失業者が生じてしまう。ほとんどの子どもは毎日来ているので継続的に定職を確保しているが、途中から参加すると新しい職に就くのは難しい。この失業率の高さこそが近年のミニ・ミュンヘン最大の課題で、大きな都市と全く同じ状況である。 またこの「遊び都市」には代々受け継がれてきた憲法や建築基準法等の法律がある。したがって規則を守らない市民がいると、その時はやはり警察官に注意を受け、場合によっては裁判にかけられ、罰金を取られるという厳しい側面もある。警察や裁判所には、本当の大人の警察官と弁護士が交替で参加してくれており、子どもの仕事に専門的立場からきちんとアドバイスをしてくれる。2004年には、市長候補者がミミュをバラまいて票集めをした罪で裁判にかけられ、3日間のミニ・ミュンヘン入場禁止と罰金の刑を受けていた。また2006年には、市役所が購入した絵画がなにものかに傷つけられた事件の裁判で、犯人はわからないまま、副市長が管理責任を取らされた。これらは全くシナリオのないドラマで、子ども達も大変緊張する。 子どもの都市とはいえ、大きな都市との連携は年々増えているようだ。2004年の特別テーマがヨーロッパであったため、EU議会の協力を得て、ヨーロッパの歴史や隣国の子どもの生活や遊び、旅行情報、外国語のワークショップ等も企画されていた。またバイエルン建築家協会は、会場内と屋外の施設や店舗を子ども達が自ら建設する際の木材や工具等、人材、技術を含めて絶大なる支援をしている。さらにミュンヘン大学医学部と赤十字の協力によってミニ病院が、そしてバイエルン労働局所管の職業情報センターの協力によりミニ職業情報センターが開設された。2006年には、市役所の公園緑地課がブースを出し、緑の手入れの仕事を提供していた。

6. 子どもによって「楽しい遊び」こそが「新しい学び」

このスタジアム内には、ハローワーク、銀行、工房、デパート、市役所、テレビ局、新聞社、広告代理店、本屋、玩具店、大学、研究所、レストラン、カフェ、劇場、映画館、ゲームセンター、スポーツセンター等、紙面に書ききれないほどの施設やお店があり、そして多様な仕事がある。ミュンヘンという現実の大都市に対して、「ミニ・ミュンヘン」はまさに子どもが様々な労働体験をすることができる魅力的な仮設都市である。そこで「なぜ、毎日ミニ・ミュンヘンに来るの?」と多くの子どもたちに聞いてみた。そうすると、すべての子どもが「楽しいから!」とだけ答える。この「楽しさ」こそが、「遊び」の原点である。子どもが「やりたい事をやる」、だから時間を忘れるほど集中して遊び、働き、学ぶ。「遊ぶこと」と「働くこと」の区別は全くなく、貨幣は単なる手段にしかすぎない。

かつて美術の教師だったミニ・ミュンヘン主催者のゲルト・グリュナイスル氏は、「遊びは何か」という私の質問に対して、以下のように語ってくれた。

「遊び」は、子どもにとってリラックスできる娯楽で、時間を潰すものだという人もいます。しかし私たちは、「遊び」が子どもにとって世の中に関して学習する非常に重要な道具であると考えます。たとえば「家族遊び」で、家族を構成する人々の役割を果たしてみます。子ども、お父さん、お母さんならどうするかをやってみる。さらに銀行員だったら…、遊びながらなんとなくわかってきますよね。つまり「遊び」の裏には「学び」があるということです。この子どものやり方を私たちの教え方に生かすのです。普通は遊ばないことをミニ・ミュンヘンで遊ぶのです。子どもが遊びながらまじめに学んでいるのは、どこを見てもわかると思います。市役所での政治もそう、新聞もそうです。子どもは数えきれないほどの記事を書き、自分の新聞を毎日発行しています。メディアを扱っているテレビもそうです。テレビ番組を作る場合、理解すべきことは、それは本当の事ではなく、製造された映像だということです。つまり何でもカットできますし、カットのやり方によっては、もともとの意図とかなり違うものにする事もできます。こういうことを教えるとき、テレビ番組やコマーシャルを分析して伝えるのではなく、子ども達がその制作過程を見て、さらにそのカットの後の映像結果を見て、その違いを学びます。

たぶんここで行われているすべてが子どもにとっては「楽しい学び」で、自立と自由への道なのかもしれない。「ミニ・ミュンヘン」は、まさに子どもが自主的に遊びと学びを体験する重要な環境、子どもの居場所となっている。

建設現場で大工の仕事をする子ども 建設現場で大工の仕事をする子ども

7. ミニ・ミュンヘン中止に抗議する子どもの手紙

1993年ミニ・ミュンヘンに大きな事件が起きた。財政難を理由に市役所がミニ・ミュンヘンの補助金を打ち切ると言い出したのである。早速子どもたちは「ミニ・ミュンヘン救済のための活動委員会」を召集した。多くの子どもは、なぜミニ・ミュンヘンが必要かを考え、大人のミュンヘン市長あてに要望書を提出した。その中には、「ただ楽しい」から来ているという子どもたちの回答より、もう少し突っ込んだミニ・ミュンヘンの生活体験の重要性や職業選択の可能性他、教育的価値が、すでに大学生や社会人になっているかつてのミニ・ミュンヘン市民の手紙によって明らかになっている。以下、ふたりの手紙を紹介する。

ミニ・ミュンヘン中止に抗議する子どもの手紙

「なによりも肝心なのは、普段は大人が占有していることを堂々とやってのけること、そして大人たちに、子どもたちの方がしばしばそれをずっとずっと良く出来ることを示すことだったのです。(中略)本当に大切なプログラムは、たとえどんなに困難であろうとやり抜くことです。(中略)あなたが今の子どもからミニ・ミュンヘンを奪おうとすることを受入れることはできませんし、受入れてはならないのです。なぜなら、子どもだって責任を持つ権利、何かを自分の手で作り上げ、発展させることができるのだという感情を持つ権利があって、それがミニ・ミュンヘンでは手に入るのです。ミニ・ミュンヘンでは、私はクリエイティブでいることができました。大都市に住む子どもたちがそうなれる場所がいったい他のどこにあるというのでしょう?」

ミニ・ミュンヘン中止に抗議する子どもの手紙

「わたしが1985年にはじめてミニ・ミュンヘンに来たとき、私は12歳でものすごく内気な小さい女の子でした。よくよく思い出してみると、私は同世代の他の女の子たちと違って、友達がひとりもいませんでしたし、私の言うことをまともに受け取ってくれる子は誰もいませんでした。(中略)わたしにとってミニ・ミュンヘンの参加は、合わせて4回、とても実りのあるものでした。大学でダンスのクラスを受け持つことが許されたときにはとうとう「世話役」として認められるまでになりました。そのときにはもう、子どもたちと接する仕事が楽しいということに気が付いていました。私はいま20歳で、精神的な障がいを持つ子どもたちのケアをしていて、来年には大学で社会教育学を専攻したいと考えています。子どもの街での多くの体験が、自分の仕事を選ぶきっかけになったことは疑いようがありません。(中略)ミニ・ミュンヘンは子どもたちに、他者とコンタクトし、自意識を高め、大人とのつき合い方を学び、攻撃的にならずに争いを解決し、さまざまな階層の子どもたちとの共同生活を営む可能性を与えてくれます。」

「ミニ・ミュンヘン死ぬべからず!」という、この子どもたちの切実な運動の結果、ミニ・ミュンヘンは継続して行われることが決定し、現在に至っている。

8. 重要なふたつのキーワード

前述のグリュナイスル氏との話をふまえて、ミニ・ミュンヘンが子どもに期待しているのは「ファンタジー(Fantasie)を持つこと」そして「ファンタジーを実現すること」ではないかと私は考えている。ファンタジーとは、空想、夢あるいは希望を意味し、子どもが最も得意とする領域である。現実ではないけれど頭の中に、全く新しい世界を描こうというメッセージである。しかしそれだけではなく、ミニ・ミュンヘンはそのファンタジーを実現するべく具体的に行動することをさらに伝えようとしている。個々のブースで困難なことや、他の人を説得しなければいけないことは多くても、その努力をしようというメッセージである。子どもがまず独自のアイデアや夢を持ち、そしてそれを実現するという小さな小さな積み重ねこそが、子どもの生きる力を育むのである。

働いて得たミミュで土地を買い、お店を持つ 働いて得たミミュで土地を買い、お店を持つ

もうひとつのキーワードは「ゼルプシュテンディッヒカイト(Selbständigkeit)」である。ミニ・ミュンヘンに子どもを連れて来た両親へのインタビューで最も子どもに期待していることが、実はこの「自立心」「自主性」であった。自らの考えを持ち、自ら行動するというグリュナイスル氏の言葉と重なるものがある。もちろんこの言葉は、ドイツ人が好んで使用するものであるが、ミニ・ミュンヘンの現場でも頻繁に登場したことには驚いた。 実は私が、なぜミニ・ミュンヘンに興味を持ち、制作したDVDに「もうひとつの都市」と命名したのかは、まさにこのふたつのキーワードに共通するものである。ミニ・ミュンヘンにいる子ども市民は、実際の大人市民よりも自治意識が強く、また自治の責任も果たし、自らの都市や社会を真剣に見つめている。しかもその子ども市民は実に楽しそうで、幸せそうだったことを私は直感的に感じ取った。つまりこれこそが、自治都市の原型なのではないか、そして最も今の日本の都市に欠けている視点ではないか。現在まちづくりに求められているのは、強い自治力、地域力を持つ「コミュニティの再生」なのである。 近年、市民参加のまちづくりが注目され、私もいくつかお手伝いしているが、まだ本質的な市民自治、民主主義に立脚したプロジェクトは多くない。もちろん時間がかかることは承知しているが、本質的にずれているものも少なくない。しかしミニ・ミュンヘンの中には、子どもだからこそ実現できる「まちづくりの民主性、純粋性、幸福感」が存在している。私たちはまちづくりの現場にもっと子どもの参画を進め、子どもにもきちんと説明できる民主性、子どもから得られる純粋性、子どもとともに分かち合える幸福感をもっと持ち込みたいと思う。ミニ・ミュンヘンを支援しているミュンヘン市の施策は、その思想が脈々と流れている。

正直言って私は子どもの専門家でもないし、子どもとそれほど接してきたわけではない。しかし今の日本の都市や社会を考えたとき、経済や金融による豊かさではなく、もっと日常生活の幸せを、そして法律や理屈ではなく、もっと人間的な感情や感覚を大切に思うまちづくりができないかと思う。これに一石を投じてくれるのが、実が「子ども」なのではないかと本気で考えている。このミニ・ミュンヘンのプロジェクトは、ドイツの子どもの単なるイベントではなく、都市計画とまちづくりの本質を考えさせてくれるすぐれた教材である。